(韓国語原文 全文: 聯合ニュース
http://v.media.daum.net/v/20180427211608491)
韓国のソウルに住んでいました。 日本語・韓国語教育関連、文化や政治、韓国で話題のニュースや舞台などについて書いていきたいと思います。
1年前の今日、100万人の民衆がソウル光化門に集まり、国民を愚弄する朴槿惠政権の退陣を叫びました。
ケーブルテレビ放送局JTBCが政府の裏をかいて次々に朴槿惠政府の裏の実態を暴き、これに怒りの声を上げた国民の連帯によって毎週週末ごとにデモが開催されました。大統領の退陣を求める声は全国にうねりとなって広がり、野党の弾劾案発議遅延を受けて12月3日には全国で232万人が一度に参加するまでになりました。
それから間も無く朴槿恵大統領は弾劾、のちに逮捕され、新大統領選挙で文ジェイン氏が新しい大統領として選出されました。
公共放送であるKBS・MBSへの政権からの度を越した介入に抗議するストライキが続き、積弊清算タスクフォースが結成され、李明博政権時からの国家情報院の不正、官民の癒着、放送局への圧力に捜査の手が入っています。
その間、日本では何があったでしょうか。
首相自身への疑惑に対して、マスコミがどれだけ徹底追求したでしょうか。
抹殺される地方の民衆の声に、どれだけの人が連なって声を上げたでしょうか。
メディアへの圧力に抗議してどれだけのジャーナリストが連帯して立ち上がったでしょうか。
権力に擦り寄る似非ジャーナリストの性犯罪をもみ消した国家権力を大手メディアは糾弾したでしょうか。
嘘だらけ、憲法違反、国会愚弄、国民無視の行政運営に対して野党がどれだけ抗戦したでしょうか。
国民はどれだけ怒りの声を上げたでしょうか。
この映像は、飼い慣らされることの恐ろしさを知る国民が、権力を一部の人間たちの欲しいままにさせないという強い意志のもとに、自分たちの声を届け、自分たちの明日を変えるために叫ぶ様子を撮ったものです。
そして実際に、彼らは権力を跳ね返すことに成功しました。
韓国は、国民の中に様々な声がありながらも、その中から民衆が自ら淀んだもの、曲がったものを改善していく理想と自浄作用を持っています。
翻って日本を見ると、若者たちは「理想」を失い、誰かが作った「現実」という名の鎖に縛られることを何とも思わない「網の中の蛙」たちを中心に「今だけ・金だけ・自分だけ」の3だけ主義に流れていくのをどうすることもできずにいます。「特定秘密保護法」「共謀罪」「安保法制」が国会を通過して、国家の名の下に国民が管理されることを良しとし、政府に批判的なジャーナリストが更迭されても指をくわえて見ているだけです。
自浄能力を失ったこんな日本をよそ目に、特に若い層を中心として、韓国の高い市民意識はとうに日本を超えてしまっていることを日々感じています。
飼い慣らされることを良しとしない人々の熱い叫びに、皆さんにも何かを感じてもらえれば幸いです。
通信は人をつなぐというSo-netの広告映像。
確かに、人をつなぐという意味でインターネットの果たす役割は相当の大きさを持つようになっただろう。
大学の授業で、初めてEmailを使い始めた文化人類学の桑山教授が、昨日知らないアメリカの学者に送ったレターに対する返事が今日来たことに興奮して、これは火・車輪・電気に次ぐ人類の革命的な発明だと言っていたのを思い出す。
それまでそんなことはありえないことだったのだ。
僕が子供の頃でさえ、外国のペンパルにメッセージを届けるのには1週間位かかったし、携帯電話や映像通話なんてSF映画の中だけの話だった。
電話はまず「~~さんのお宅ですか?」と尋ねてから、話したい友人を呼びださなくてはいけなくて、好きな女の子の家に電話するのにも、電話ボックスの中で何十分もドキドキしてからエイヤッとダイヤルを回したものだった。
昨日は大学生たちに20代に見られたけれど、こんな話をするとすっかりおじさんモードだ。彼らにはきっとこんな感覚は理解できないだろう。
つなげるというのはプラスの動詞だ。自動詞から先に発生した。切るとか裂くというのはマイナスの動詞だ。他動詞から先に発生した、破壊の動詞だ。
これだけ簡単に海を越えて人を「つなげる」ことができるようになったのに、まだまだ簡単には人が「つながって」行かないのは何故だろう。
結局のところ、線がつながって、画面で見えるようになるだけじゃあ足りないということだ。
五感のうちの目だけしか使っていない。
線と面と記号だけでは、声も匂いも雰囲気も笑顔も温もりもわからないし、手も繋げないしハグもキスもできない。
掲示板で自動翻訳のメッセージ越しに外国人と友情を培うのは相当難しい。実際に会ってしまえば、一緒にマッコリ居酒屋で一杯やるだけで生涯の友になることもできるのに。
今では映像だってあるしそれもいいけれど、やっぱり実際に行って会って握手して話して、食事して、笑い合うのがいい。
生命体は一つ一つの細胞がつながっているから生命体であって、バラバラになったら生きていけない。
つながっているからこその生命だ。
こんな意味で、つなげるというのは尊い仕事だ。
そして、農業でも飲食でも運送でも製造でも、どんな仕事でもたいていは人と人とをつなげる有機体の一部として機能しているのだろう。
大学生のみなさん、外国に出てみましょう。
ニュースの中でしか知らなかったあの国でも、そこで住んでいる人にとってはそれが人生の全てです。どんなことを考え、何を見て何を食べて何を呼吸しているのか、実際に自分の目で見てみましょう。
ネットの中の世界では絶対にわからなかった体験がそこではできます。
君も世界に繋がろう。
しかし、この映像に出てくる言葉遣いには考えさせられる。
これからの日本語教育はこんな言葉遣いにも対応していかなければならないのだろうか?
秋に、国際交流基金からの招待で、「祝/言」という日中韓共同制作の演劇を大学路の劇場で鑑賞した。
その記事が先日、国際交流基金のブログに出ていた。
教授から行って見なさいと言われて行ったこともあり、事前にどういう話かまったくわからなかったため、一緒に行ったみんな(韓国人)はあまり期待していなかったようだったが、内容が素晴らしく、見終わった後に皆本当によかったと口々に言っていた。
自分も以前日中韓の共同制作作品2つの制作に参加したことがあったが、
(コンキチ http://youtu.be/80rJ4Rp3RIs)
(もう一つのシルクロード http://youtu.be/NMArUNRaYak)
このような作品こそ国際交流基金のような支援をする意味のある公演だと感じさせてくれる内容だった。
僕は途中、あの日のことを思い出しいたたまれない気持ちになったが、韓国の人々はどう感じていただろうか。
この作品の中で、東北の大学で中国人の先生のゼミ学生であった日本人青年と韓国人の女性が、東北の海岸沿いのホテルで祝言を上げることになり、日中韓の音楽家が集まって前日にリハーサルで合奏をする。
それはまさに文化の違いを超えた心の交流の場であった。
しかし、その直後、無情にも大地震と大津波が街を襲う。
生き残ったのは偶然その場にいなかった中国人の先生と福島出身の日本人の2人だけ。
この作品のために東北を始め韓国、中国を出演者とともに回って来たことが、写真とともに演出されていた。
あれからもうすぐ3年が経つ。
津波の映像を見つめ続け、ACの広告と緊急地震速報のシグナルがトラウマになったあの日々を思い出す。
あれから何ができただろうか。
あれからちゃんと変われただろうか。
あの日にたくさんの人たちにさようならをして、僕たちはいまどこへ行こうとしているのだろうか。