通信は人をつなぐというSo-netの広告映像。
確かに、人をつなぐという意味でインターネットの果たす役割は相当の大きさを持つようになっただろう。
大学の授業で、初めてEmailを使い始めた文化人類学の桑山教授が、昨日知らないアメリカの学者に送ったレターに対する返事が今日来たことに興奮して、これは火・車輪・電気に次ぐ人類の革命的な発明だと言っていたのを思い出す。
それまでそんなことはありえないことだったのだ。
僕が子供の頃でさえ、外国のペンパルにメッセージを届けるのには1週間位かかったし、携帯電話や映像通話なんてSF映画の中だけの話だった。
電話はまず「~~さんのお宅ですか?」と尋ねてから、話したい友人を呼びださなくてはいけなくて、好きな女の子の家に電話するのにも、電話ボックスの中で何十分もドキドキしてからエイヤッとダイヤルを回したものだった。
昨日は大学生たちに20代に見られたけれど、こんな話をするとすっかりおじさんモードだ。彼らにはきっとこんな感覚は理解できないだろう。
つなげるというのはプラスの動詞だ。自動詞から先に発生した。切るとか裂くというのはマイナスの動詞だ。他動詞から先に発生した、破壊の動詞だ。
これだけ簡単に海を越えて人を「つなげる」ことができるようになったのに、まだまだ簡単には人が「つながって」行かないのは何故だろう。
結局のところ、線がつながって、画面で見えるようになるだけじゃあ足りないということだ。
五感のうちの目だけしか使っていない。
線と面と記号だけでは、声も匂いも雰囲気も笑顔も温もりもわからないし、手も繋げないしハグもキスもできない。
掲示板で自動翻訳のメッセージ越しに外国人と友情を培うのは相当難しい。実際に会ってしまえば、一緒にマッコリ居酒屋で一杯やるだけで生涯の友になることもできるのに。
今では映像だってあるしそれもいいけれど、やっぱり実際に行って会って握手して話して、食事して、笑い合うのがいい。
生命体は一つ一つの細胞がつながっているから生命体であって、バラバラになったら生きていけない。
つながっているからこその生命だ。
こんな意味で、つなげるというのは尊い仕事だ。
そして、農業でも飲食でも運送でも製造でも、どんな仕事でもたいていは人と人とをつなげる有機体の一部として機能しているのだろう。
大学生のみなさん、外国に出てみましょう。
ニュースの中でしか知らなかったあの国でも、そこで住んでいる人にとってはそれが人生の全てです。どんなことを考え、何を見て何を食べて何を呼吸しているのか、実際に自分の目で見てみましょう。
ネットの中の世界では絶対にわからなかった体験がそこではできます。
君も世界に繋がろう。
しかし、この映像に出てくる言葉遣いには考えさせられる。
これからの日本語教育はこんな言葉遣いにも対応していかなければならないのだろうか?