福島第一原発事故における「国土の喪失の否認」について
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復興は、技術的な営みの積み重ねのみによって果たされるとは思わない。こころが整うことが必要である。
この記事を読んで感じたこと。
「復興は、技術的な営みの積み重ねのみによって果たされるとは思わない。こころが整うことが必要である。」
多くのことを感じさせられる記事だった。
「あいまいな喪失」という言葉を聞いて思い出すのは、『喪失の時代』というタイトルで韓国語に翻訳された、村上春樹の『ノルウェイの森』だ。
主人公は友人を失った喪失に、あらゆる物事と自分の間にしかるべき距離を置くことで心を保とうとする。
そして、心を病み自ら命を断った恋人の喪失を乗り越えるために、1ヶ月間の放浪の旅に出なければならなかった。
「人々のこころが整い、その間に本当の一体感が生じることが求められている。しかし、現状はそこから遠い。」
との筆者の指摘は、経済というものさしで復興を計ることしかできない政治家や学者に対して投げつけなければいけない問だ。
人間は体があっても心がなければ生きていけないし、心が育つためには環境が必要だ。
自分のように都市で育ち、どこに行って野垂れ死んでもわからないような根無し草のような生活を送っているものでさえ、若しふるさとの街が失われてしまったらという想像には背筋を寒くする。
「喪失を否認したまま、失われたものを以前の姿そのままに取り戻そうとする営みは、残念ながら成功しがたい。」
我々は失うということに慣れていないのかもしれない。
僕の住む韓国という土地の人々は、歴史の中で数えきれない喪失と絶望を繰り返してきた。
日帝35年の間に多くの文化的アイデンティティを喪失し、その後には国土と国民の半分以上を喪失し、それは今でも失われたままだ。
それを受け入れ、それでも生きるというところに立つまでの永遠の葛藤を誰が代われるだろうか。
そばにいるものはただ一緒に悲しむことしかできない。それは永遠に失われてしまったのだ。
代わりのものを受け入れられるようになるまでには膨大な時間がかかる。
別のプログラムを新しくインストールして入れ替えるようなことはできない。
ひとたび事故が起こればすべてを失うというリスクをかけて、電力を安く得ようという人間は想像力が欠けている。
失うということを知らないか、思考停止をしているかのどちらかなのだろう。
失うことはマイナスばかりではない。失ったという経験が、新しいプラスを生み出すはずだ。
そのためには、「喪失」を認めるというプロセスが必要なのだと筆者は言う。
一度すべてを失うまで分からないのが人間の性なのだろうか。
「どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ。」
このことが分からない以上、ラピュタが滅びたように現代人の文明も滅びるのだろう。
人間は鉄とコンクリートと電気で出来ているのではない。
土と空気と美しい水で作られるのだ。
横浜で生まれ育った僕だって、そんなことくらい知っている。
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「本当に自分のこころが一体化しているものを失った時には、それが失われたことに気がつくことすら困難となる。世界がそのままで、自分が弱くなったような、空しくなったような感覚に取り憑かれる。無性に怒りや罪悪感が生じるようになり、それが癒され難い。生じた攻撃性が他者に向かえば暴力や暴言となり、自分に向かえば最悪は自殺にいたるような自己破壊的な言動につながりやすい。
だから、安全に守られた個人的な空間においては、喪失の悲しさを体験することも重要となる。それは、新しい現実の再建に向かうために、また、無意識的な怒りや罪悪感にとらわれる害毒を減らすために、必要なのだ。
喪失を否認したまま、失われたものを以前の姿そのままに取り戻そうとする営みは、残念ながら成功しがたい。」